アンドレイ・タルコフスキー『惑星ソラリス』

ハリー「私は女として言うのです」


サルトリウス「君は女ではない。それ以前に人間ではない。まだわからんのか。ハリーはいない、死んだのだ。君は彼女のコピーなんだ。物理的なコピーにすぎないのさ」


ハリー「ええ、そうかもしれません。でも私は……人間になります。感情だって、あなた方に劣りません。彼なしではいられません。私は……彼を愛しています。私は人間です」

ある時、むしょうにバッハのオルガン曲が聞きたくなった。パイプオルガンの持つ音圧に埋もれたいと思った。そこでマリー・クレール・アラン演奏のバッハオルガン曲集を買ったのだが、そこに収録されている一曲に強く惹きつけられた。BWV639、『イエスよ、私は主の名を呼ぶ』は、オルガン曲の中でも少し毛色が違うように感じたのだ。聞きこんだり、曲自体のことを調べていくうちに、この曲がテーマ曲として使われている映画があると知った。それが今回視聴した『惑星ソラリス』だ。今回、というよりも知ったのは1月だったのだが、ブルーレイで出るということを知って予約したはいいものの、発売延期となってしまい、ようやく先日届いたという経緯だ。
水の惑星ソラリスは、過去に探索に行った者が信じられないものを目撃して報告するが、学者達は幻覚だと彼の経験を否定し、彼を異常者として扱った。その惑星ソラリスの研究の可否を主人公のクリスが判断することとなり、ソラリスの宇宙ステーションへと派遣される。そこで彼はとんでもないものを目撃する。眠って起きてみたら、自分のせいで死んだ(と思っている)妻ハリーが目の前にいる。彼はいきなり彼女をロケットで飛ばしてしまう。この時点で彼は、まだ自分を正常(この場合の正常は、科学に根を張ったものだろう)だと思い、彼女を現象の一つとして扱っていた。しかしまたハリーはよみがえる。彼女はソラリスの海が、人の脳内から創りだしたものだった。それから彼は徐々に、彼女にのめり込んでいく。肉体は違えども、彼はそれにハリーを見出していたのだ。
未知のものでありながら、人らしい振る舞いをするものに対する葛藤を描いたものというのは決して少なくはない。しかしこの映画では、絶望を描くより、気丈に、気高く、それでいて昂ぶらず、自分は人間だとハリーに言わせる。その図書室でのシーンの時のセリフが、冒頭の引用だ。関係なくして生きていけない我々は、他者の理解が何よりも重要だと思わせられる。そしてSFの手法も、そのような立場に立脚すれば非常に有効なものだ。タルコフスキー作品は初めてだが、とても率直かつ美しくそれを描いていると思う。もちろん表明するのは言語だが、数々の散りばめられたイメージ、カメラマンの力量、監督の演出はため息しか出ないほどの素晴らしさだ。
その映像美の極致といってもいいのが、図書館での無重力シーンだ。冒頭の引用のシーンのあと、他の科学者が去った図書室(少しの間無重力になってしまう時間帯があるのだ)で、二人は無重力の中抱き合う。抱き合うというより、抱き寄せて、寄り添う。シャンデリアに燭台がぶつかり、音を立てる、カメラが絵画をぐるりと二人を取り囲んでいるように見せる、本が横切る……バックで流れる『イエスよ、私は主の名を呼ぶ』……。言葉で書いてもどうにもならないが、鳥肌が立つぐらい美しいシーンだった。そして何よりも、クリスよりも、ハリーのほうが高い位置で寄り添っているのである。これが実に印象的だった。この瞬間、二人の愛は肉体を超えたのだと思う。このシーン自体は、無重力というものを表現するギミックというのは、それほどでもない。しかしその演出とカメラワークは、そのようなものは些細なことだと思わせるほどの説得力がある。表現に大事なのは、物理的法則よりも説得力だと思う。だから、さほど自由に浮遊していないのにも関わらず、これほどまでに感動するのだろう。
ソラリスは、何のためにあったのか。おそらく、そんな問いの前に存在していただけのことだ。しかし、地球の人達がソラリスとどう向かい合うか、そのきっかけをクリスとハリーは作った(お客様 ではなくなる)だろう。ラストのシーンを見れば、クリスの内面がどのようになったか、わかるはずである。
タルコフスキー作品は初めてだったが、表現に真摯に向き合う人だということが、よくわかった。是非他の作品も見てみたい。久々に映像で感動させてもらい、映画の持つパワーを感じることができた。同時に、BWV639の再生頻度も上がることだろうと思う。

惑星ソラリス Blu-ray

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トッカータとフーガ / バッハ : オルガン作品集

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