フアン・ルルフォ『ペドロ・パラモ』

私達が小説を読む時、私がそうしたこうした、何年後にどうしたこうしたと、筋道をたてて、歴史を追うように話が展開していく。一つの町と、そこに住むある男についての話だとすれば、壮大な時間の進行とともに、男の軌跡が語られていくかもしれない。それを語るのは彼の息子で、その町にやってきたとすれば、最後に彼が何かをして終わる場合がほとんどではないか。
『ペドロ・パラモ』を読み始めた時、そのような期待をしながら読んでいた。父親との因縁という意味で中上健次の『枯木灘』のようなものを想像しながら。死人が出てくるのはまったくもって問題ない。しかしある時、主人公であるフアン・プレシアドが死んでしまう。そのあたりから少し首をかしげる。コマラにやってきた「おれ」がいなくなったら、誰がその先を語るのだろうか? オラシオ・カステジャーノス・モヤの『無分別』においても、語り手が発狂しながらも物語は進んでいた。しかし、語り手が死んでしまったら、誰が収集をつけるというのだろう。じゃあ彼は主人公ではないのではないか? 唐突な視点の切り替え、ペドロ・パラモであったり、レンテリア神父であったり、スサナであったり。次の行が、時間通りに進む保証は何一つないのだ。この辺は、リョサの『緑の家』を思い出したが、年代的には『ペドロ・パラモ』のほうが先だ。気がつけば、様々な時代を行き来している。まるで四方八方にジョイントするパーツを、次々と組み合わせていっているかのようだ。
もはや歴史的時間というものは極限までに薄れる(断片があるということは、その中では多少時間が動いている)。それはコマラが見てきた、ペドロ・パラモが見てきた純然たる空間だ。時間という絵の具をおもいっきりキャンバスにぶちまけてやった、その絵を私たちは見て、体験している。たった200ページ弱、小説の200ページというのは、長編としては決して多いページ数ではない。その中に、コマラが、ペドロ・パラモが凝縮されているのだ。その構成の妙にぶち当たった時、フアン・ルルフォの凄さが一気に流れ込んできた。マルケスが影響を受けたというのは実に頷ける話で、羊皮紙の予言をなぞって進行していた『百年の孤独』と比肩されうる作品だということは、読了後すぐに理解できた。凄い作品ですよこれは。
さて、本の最後はペドロ・パラモが死ぬところである。しかし、これは最後であって、最初でもある。そのずっとあとにフアン・プレシアドがコマラを訪ねてきて、彼もまた死ぬのだ。いや死んでいたし、まさに死んでいるところなのだ。

ペドロ・パラモ (岩波文庫)

ペドロ・パラモ (岩波文庫)