お前はうちの子ではない橋の下から拾って来た子だ

「あんたはね、豊平川の橋の下で拾ったんだよ」叔母に何度となく言われた言葉だ。本気になどしなかったし、冗談だとわかっていたので笑い話だ。
その後大人になってから、お前は橋の下で拾ったというこの言い回しが、実は全国で存在しているということを知ってたいそう驚いたことがある。ある時、これに関する書籍があることを知って手にとってみたのが、今回の表題となっている本だ。
本書は、精神科医である著者が表題の言い習わしについてアンケートを実施したものについて、文化人類学的考察をしていくというのが本旨である。この言い習わしについてアンケートを実施した人はおそらく他にはいないと思われるので、資料としては貴重なものではなかろうか。(もし他にいれば追記する)
結果としては、女性の体験率のほうが多かったり、橋の下という場所が最も多かったりと、面白いものになっている。しかし、筆者自身の考察が、曖昧なものをそうに違いないとした上で行なっていて、もう片方のケースについても仮定として検証するのかといえばしない。特に言われた時の状況、気持ちを自分の中で組み立て、ドラマにしているのはいただけない。頭の中でそうなるのはかまわないが、本として、研究の結果を世にだそうと思うならば、もっと掘り下げなければいけないのではないかと思う。ではどれもこれもだめかといえばそうでもなく、厄年に生まれた子供を一度形式的に捨て、予め頼んでおいた人に拾ってもらう、拾い親という風習から、この言い習わしが来ているのではという指摘は考える余地がある。
昔、『捨』という漢字が名前に入っている人がいて、親は何を考えてこのような文字を入れたのだろうと理解に苦しんだことがあったが、これもこの風習から来ていると知り、むしろ親の愛にあふれたものなんだと感心させられた。
自分が言われた叔母というのは、このアンケートではかなりの少数派だった。多くは母親、父親、きょうだいの順で、家族の範囲内が圧倒的なのだ。ただ自分が小さい頃、親は出張で二人ともいないことも多く、その時に泊まってご飯の支度などをしてくれたのが叔母であり、母親自体も親よりも叔母と暮らしていた時期のほうが長い。そうした背景もあり、叔母自身が特に家族意識を持っていたようである。「あんたの本当の母親は私なんだから」(前に豊平川の橋の下で拾ったっていったはずだが……?)なんてこともよく言っていた。おそらくこの言い習わしの背景としてはレアケースであろうと思う。
作者自身が認めるように、本の中で最後までわからなかったことがある。それは橋の下という場所がなぜこんなにも言われているかということだ。この言い習わしは、親から言われていなくても、その子が自分の子供に言っているケースも少なからずあるのだ。それはとりもなおさず、お前はうちの子供ではないという縁切りの言い回しそのものの普遍性を示唆しているが、その中でなぜ橋の下が拾ってくる候補の筆頭にあがるのか。少なくとも子供に言うその時までに、どこかで、子供を拾ってくるとしたら橋の下というイメージができあがっているとは思うのだが、その根源はどこなのだろう。本書では示されていないので、自分で考えるしかない。
それらのすっきりしない部分を抜きにしても、このアンケート結果は貴重であるし、この言い習わしを言われた経験がある人が、改めて考えてみるきっかけとしてはいい本なのかなと思った。本旨の『文化人類学的考察』を求める人には、物足りないものがあるのは否定できない。

お前はうちの子ではない橋の下から拾って来た子だ

お前はうちの子ではない橋の下から拾って来た子だ