武田泰淳『ひかりごけ』

武田泰淳を読むのはこれが初めてだ。きっかけは、実在の人肉食事件を題材にした表題作に惹かれてだ。
表題作を読んだ時、久々の感動に包まれた。このような作品を今まで知らないでいたのかと、自分を恥じてしまうほど。
主人公は羅臼の校長から戦時中、船が難破し道東で船員達が遭難し、その過程で衰弱死したものの肉を食べた事件の話をきく。
一人生き残った船長は、まぎれもなく全員を食べた人間だ。しかし人肉食ときいて、いい気持ちのする人はいない。自分だって、わけのわからぬ気持ち悪さが込み上げてくる。では船長は人肉食を行ったことで、人道に反する罪に問われるのか? となると、これはどうもそう簡単にはいかない。
そのことについては途中から戯曲という形で、船員達のやりとりを書いている。しきりに船長は、もう一人の船員に向かって、生き残るためには、死んだ者を食わなければならないと諭す。しかし人肉食というタブーがつきまとう船員は、次は自分だと思い焦燥感にかられる。
社会で規定されているタブーが、純粋に自分の存在を維持するために必要なことと重なった苦悩が、船長に重くのしかかっていると思う。第二幕で船長はカミュの『異邦人』のように、四面楚歌の裁判にかけられる。裁判の人間達は彼を残忍な罪人とみなしているようだが、自分はそういいきることはできない。ここに武田泰淳のうまさを見た気がした。
表題作の他に3つの短編がこの文庫にはおさめられている。どれにも共通しているのは、名よりも存在を重視していること。今ここにあるということの大事さを常に意識しているように感じられた。そしてあるコミュニティから弾きだされる異端者に、なみなみならぬ関心をよせている。

ひかりごけ (新潮文庫)

ひかりごけ (新潮文庫)