安部公房『けものたちは故郷をめざす』

定住することというのは、安定した基盤を築くことに繋がる。誰もが安定したいし、何か自分の身分を証明できるものを持ちたいと思う。
この作品は、安部公房満州引き揚げ体験がベースとなっている。この経験によって彼は故郷から切り離され、地に足つかぬ生活をしていく。それらは強烈に彼の中に植えつけられ、今後の作品の発想のバネになっている。
この小説の主人公である久木久三は、故国である日本に行きたい一心で中国の荒野を、途中で出会った謎の男である高と一緒に南下する。
目印となるものも少ない荒野……周りの集落は中立を決め込み、境界という実に不安定なものの上で二人は死にかけながら、仲間割れしながらも南下を続ける。途中、久三は何度も泣く。行ったことのない故国日本を思いながら……。
不安定なものの上にいる時、人間というのはなんと弱いものかと思う。定住から離れれば、明日の命の保証すらままならない。まさしくそれは、今日を徹底的に物質的に生きるけものだ。だからこそ久三は、日本という安定した身分証明を欲した。
苦難の果てにようやく彼は「日本」に乗ることに成功する。しかしそこで彼は、自分が進むべき方角、道標を失い、その圧倒的現実の前に彼の日本は瓦解する。そして、ただ生きることによって自己を維持するけものとなる……。
「日本」に乗る前、久三が出会った大兼という男に、戦争によって日本の桜の木が焼けてしまったか尋ねるシーンがある。大兼はそんなものどうでもいいとつっぱねるが、この二人の間に、おそらく根本的な感覚の相違があるように思える。久三はきっと、日本人の心に咲く桜を見つめていた。憧れの故国日本の象徴である、観念的な桜を。ここは作中で最も印象的なシーンとなった。なぜならそれらを信じた(と思われる)彼が、最後には裏切られてけものにならざるを得なかったのだから。
読んでいる途中、あまりの読みやすさに不安をおぼえた。読んでいる途中、ところどころ安部公房らしさは感じるものの、あまりに具象的すぎるとも感じたからだ。しかし読み終わって俯瞰してみると、安部公房が受けた影響をダイレクトに反映し、今後『燃えつきた地図』などにも繋がるような話であることがわかって、改めて彼の凄さを認識させられた。