聖人か狂信者か

バルガス・リョサ『世界終末戦争』を読了した。疲れと多忙もあって、合間に時間を見つけては読んでいたりもしたのだが、かなりの時間がかかってしまった。思うに、二段組の本は人間の睡眠を誘発させる成分が含まれているに違いないと、改めて確信した。
『世界終末戦争』は、1800年代に実際にブラジルで起こったカヌードスの乱を題材にした小説だ。コンセリェイロという一人のキリスト教信者が、不毛の地であるセルタンゥを遍歴する。そこに彼に共感した人が次々と集まり、ついには共和制に反対し、カヌードスにブラジルの法の及ばないひとつの町を作り上げる。そして次第に放任してはおけないぐらいにまで彼らの存在は肥大化し、軍が派遣される。しかし、この素人集団達に軍は次々と敗北を喫し、最後には数に物をいわせ、強力な兵器を投入してでさえも、最後は兵糧攻めをせざるを得ない。そんな彼らジャグンソの力の源は一体何なのだろうか。
彼らに言わせると軍の者たちは魔の犬で、唾棄すべき存在だ。殺したらその性器を切り取り、死体の口の中につめたり、木からぶらさげたりと、おおよそ近代では考えられないような凄惨な光景が、キリストを信奉する者達によって繰り広げられていた。しかし彼らにとっては、自分達の死でさえも、天国へいたるひとつのステップでしかない。そうなのではあるが、いざという時に割り切れないものを感じてしまうのはこれも人間の性なのではないか。実際にジャグンソの中でもコンセリェイロに近い人物でさえもそう感じることがあったのだ。しかし彼らの大半は満たされ、コンセリェイロを信奉してやまない。軍や彼らに反対するものからすれば、それはまた狂気の沙汰でしかない。しかし彼らもまた間違ってはいない。結局のところ、ブラジル中を注目させた戦争を引き起こし、かつ自分は武器などを一切持たず、その戦火の最中、流れ弾や刃物によらず死んだコンセリェイロに、聖人も狂信者も、どちらのラベルも貼り付けることなどできはしない。リョサはこのへんをよくわきまえていて、多数の人間の視点から実にたくみに世界を構築している。
自分は本来、リアリズムをあまり好んで読むことはない。しかし、リョサの作品に対する姿勢は、強く自分を惹きつけるものがいつもある。それらは『緑の家』でも見られたが、この『世界終末戦争』ではさらに濃くなったように思える。ラテンアメリカに偏在する過去と現在のサラダボウル、そこに生まれる権力とそれに対する闘争。自分は表現というものは闘争から生まれるものだと思っているので、ストレートではあるがリョサの考えには深く同感せずにはいられない。
そんな彼が、単一的解釈を許さずに描いたのがこの小説だ。二段組で700ページ近くもあり、慣れない文化なども相まってなかなか読み進まないかもしれない。読み終わる頃には、不毛の大地に渦巻く混沌とした人間模様にめまいがするかもしれない。しかし、本来人間や思想など、身の回りを構築しているものは無限の情報に溢れかえっている。それらをそぎ落としているはずの言葉が、再びたくさんの混沌を生み出す様を、この小説はたくみに表現している。常に我々の根底を流れる普遍性にまとわりついている皮を、たくさん剥いでくれる……そんな作品だった。

世界終末戦争

世界終末戦争