ナーズム・ヒクメット『フェルハドとシリン』

トルコの詩人による戯曲である。トルコの文学もまた、日本人にはなじみの薄いものかもしれない。自分も初めて読む。トルコといえば自分にとって、旋舞(セマー)を行うメヴレヴィー教団が真っ先に想起される。セマーは自分に強烈なインスピレーションを与えてくれた儀式で、いつか生で見てみたいと思うほど。
絶世の美貌と肉体を持つ女王メフメネ・バヌが、病気になって瀕死の状態になった妹シリンに、自分の美貌を与えるところから物語は始まる。メフメネ・バヌはみるみる醜い顔になるが、肉体はそのままである(シリンの肉体は姉と並ぶと貧相に見えるようだ)。二人は共に絵師であるフェルハドに恋をする。ここまではどこにでもある恋愛物語だ。そしてフェルハドとシリンは駆け落ちし、メフメネ・バヌは絶望に打ちひしがれる。
物語の様相が変わるのは、捕まったフェルハドがメフメネ・バヌから試練を与えられたところからだ。一人で山を穿ち、水を引くという事業だが、十一年が経ってさえも、先が見えないほどの難事業。しかし真摯にそれに立ち向かううちに人々は彼を聖人のように崇め、フェルハド自身も、多くの人々のために行うこの事業そのものに没頭していく。シリンはもはや具象的な彼女の姿ではなく、彼を支える愛の象徴となっていった。
だからいざシリンが迎えにきても、彼には戻る理由がなかった。肉体的距離はもはや問題ではなく、全人類的愛と彼女への愛は差があるものではなくなってしまった。
この話を見て、悲しいと思うこともあろうけど、また一方でフェルハドの行為も、紛れも無い愛である。メフメネ・バヌの妹のそれも、紛れも無い愛である。この話の中には、おそらくイスラム教の重要な要素が入っているが、自分はイスラム教の知識はないので、そこまで深く入り込めないのが歯がゆいが、訳者解説が非常にしっかりとしているので、それを読むだけでも理解は深まるはずである。何よりも解説に、メヴレヴィー教団とそれを開基したジェラール・ウッディーン・ルーミーの名が出てきたことに驚いた。本というものは、思いもかけない繋がり方をするものだと再認識させられた。作者は、人生のかなりの年数を獄中で過ごしてきた人で、その事実を踏まえて読むと、また違った味わいがありそうだ。
この本に出会ったのは、全くの偶然であり、特にトルコ文学を開拓したくて情報を漁っていたわけではない。むしろ表紙に惹かれたくらいである。その後、この本が意外と読まれていない事実に直面して、実にもったいないと感じた。訳者の方の並々ならぬ努力の功績もまた、認められる日が来ることを願う。願っちゃうよ!

フェルハドとシリン

フェルハドとシリン