安部公房『砂漠の思想』

エッセイがうまい作家というのはかなりいる。しかしエッセイも小説も抜群にうまい作家というのは、実は結構少ないと思う。その中にあって安部公房は、エッセイも小説も抜群にうまい。その徹底した分析思考を、作家こそ持つべきだと思う。作家は仮説(無論学術的なものよりは自由度が高いが……)を立てるのが仕事みたいなものなのだから、それを裏付ける努力が必要だ。
『砂漠の思想』は、様々な時代の安部公房のエッセイをまとめたものだ。その中にはまだ思考が固まりきっていない段階のものもあって、『死に急ぐ鯨たち』や『内なる辺境』と比べると、その多岐に渡る内容に、最初は戸惑うかもしれない。それはあとがきで安部公房も認めていることではある。
しかしそれらが、小説の発想のもととなっているだろうと思われる部分がたくさんあるし、はっきりと明言しているところもある。安部公房作品が好きならばまず見過ごせない事実だろう。雑多な文章に強いて一本通すとすれば、日常性や常識に対する疑念ではないだろうか(漏れるものが出るのは承知の上で)。こうしたステロタイプが何の考えもなしに浸透している事実に、安部公房は疑念のメスを入れる。その最たるものが「殺人が悪なのではない」だと思う。これはもうタイトル通りの内容なので、読んで確かめてみてほしい。
創作に関しては、「SFの流行について」が非常に鋭い指摘をしていて、とても刺激的だった。疑似科学にこそ、作品を作品たらしめる仮説を生み出す源泉があるという主張は、仮説の重要さを常々考えている自分にとって、とても良い刺激となったのは言うまでもない。
この本を読んで思うことは、仮説とそれを裏付ける分析の重要さだ。まさにそれは、安部公房の文章自体からこれでもかとばかりににじみ出ているとよくわかる。

砂漠の思想 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

砂漠の思想 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

安部公房『けものたちは故郷をめざす』

定住することというのは、安定した基盤を築くことに繋がる。誰もが安定したいし、何か自分の身分を証明できるものを持ちたいと思う。
この作品は、安部公房満州引き揚げ体験がベースとなっている。この経験によって彼は故郷から切り離され、地に足つかぬ生活をしていく。それらは強烈に彼の中に植えつけられ、今後の作品の発想のバネになっている。
この小説の主人公である久木久三は、故国である日本に行きたい一心で中国の荒野を、途中で出会った謎の男である高と一緒に南下する。
目印となるものも少ない荒野……周りの集落は中立を決め込み、境界という実に不安定なものの上で二人は死にかけながら、仲間割れしながらも南下を続ける。途中、久三は何度も泣く。行ったことのない故国日本を思いながら……。
不安定なものの上にいる時、人間というのはなんと弱いものかと思う。定住から離れれば、明日の命の保証すらままならない。まさしくそれは、今日を徹底的に物質的に生きるけものだ。だからこそ久三は、日本という安定した身分証明を欲した。
苦難の果てにようやく彼は「日本」に乗ることに成功する。しかしそこで彼は、自分が進むべき方角、道標を失い、その圧倒的現実の前に彼の日本は瓦解する。そして、ただ生きることによって自己を維持するけものとなる……。
「日本」に乗る前、久三が出会った大兼という男に、戦争によって日本の桜の木が焼けてしまったか尋ねるシーンがある。大兼はそんなものどうでもいいとつっぱねるが、この二人の間に、おそらく根本的な感覚の相違があるように思える。久三はきっと、日本人の心に咲く桜を見つめていた。憧れの故国日本の象徴である、観念的な桜を。ここは作中で最も印象的なシーンとなった。なぜならそれらを信じた(と思われる)彼が、最後には裏切られてけものにならざるを得なかったのだから。
読んでいる途中、あまりの読みやすさに不安をおぼえた。読んでいる途中、ところどころ安部公房らしさは感じるものの、あまりに具象的すぎるとも感じたからだ。しかし読み終わって俯瞰してみると、安部公房が受けた影響をダイレクトに反映し、今後『燃えつきた地図』などにも繋がるような話であることがわかって、改めて彼の凄さを認識させられた。

今福龍太『クレオール主義』

「十字路になりなさい」
境界文化における自己の存在証明について葛藤したグロリア・アンサルドゥーアの言葉だ。十字路とは様々な人や文化が出会う場所……。
安部公房作品を読んでいると、まずぶつかるのが境界の問題ではないだろうか。戦後、故郷を失い地に足つかぬ生活をしてきた彼にとって、それは非常に敏感な問題になったと思う。当然、その彼の作品を体験する読者も、漠然と関心を持つのも無理はない。エッセイなどを読めば移動と定住、ユダヤ人についてなども論じているので尚更だ。
その上で読んだのが今回の『クレオール主義』だ。著者は反本質主義的立場から、文化・人の混淆によって起こる文化について論じている。
南米やカリブ海における混血が示しているものは、西欧的なコロニアリズムの爪あとだ。やがてそれらは、クレオール化して西欧社会に強力な弾幕となって降り注ぐ。クレオール文化というものの抗う力というのはそれは強力だ。しかし同時にそれは、境界に生きる人々の葛藤も意味している。著者はその文化の交差点で自己を確立しようとした人々を文学、絵画、建築、音楽など、あらゆる分野から紹介している。特に文学はかなりの部分にわたっているので、その方面からクレオールに興味を持った人には格好の材料になるだろう。自分の場合、むしろ知らない分野である絵画などでたくさんの刺激をもらった。
挙げられた人の中で特に注目すべきは、この記事の最初に挙げたグロリア・アンサルドゥーアかもしれない。彼女の葛藤は、その表現言語を英語とスペイン語のハイブリッドなものにして、反翻訳精神を掲げた。おそらくどちらの言語を習得していても、彼女の深いところに入っていくのは難しいように思う。彼女の思考は、英語もスペイン語も、どちらも根幹にしていないだろうから。
クレオール文化について考えることはとりもなおさず、既存の国家について考えることにもつながる。国家に頼らず自己を保ち続けるのは容易ではない。しかし、自分自身の中にクレオール的な方位磁針を身につけることができれば……。自分の位置がわかっていれば、向かう先がわかっていれば、案外流されていくのもいいのかもしれない。
自分の立ち位置を探るという意味で、非常に刺激的な本だった。著者の洞察力、文章力に感心しきりだ。

クレオール主義 (ちくま学芸文庫)

クレオール主義 (ちくま学芸文庫)

菊地成孔・大谷能生『東京大学のアルバート・アイラー―東大ジャズ講義録・キーワード編』

前期は歴史を扱ってきたが、後期は「ブルース」「ダンス」「即興」「カウンター/ポストバークリー」について扱っている。なお、各キーワードの最後の講義には、それぞれの分野から専門家を招いて話を聞くという形式をとっている。
全体的に歴史編と比べて、ジャズ自身が直接語られる割合は少なくなってきている。特にダンスの回などは顕著だ。なので現代のポピュラーミュージック全般のような話になってはいるのだが、本人達もそこは自覚していてやっているのだろうと思う。そして、重要なことでもあるように思う。
各分野のそれぞれの先生の話はとても刺激的で面白く、またこれからの展望について真剣に考えている人達ばかりだ。その中で特に度肝を抜かされたのが、最終講義、「カウンター/ポストバークリー」の回のゲスト講師である濱瀬元彦氏だ。彼のラングメソッドは、『憂鬱と官能を教えた学校』でも紹介されていて存在は知っていたのだが、そこまで突っ込んだことはやらなかったため、その程度に留まっていた。しかし今回、下方倍音列からブルーノートを説明された時、Cmajor上からCminorが現出した時、世の中にはこんな楽理があったのかと心底驚いた。そして、彼の音楽に対する情熱の素晴らしさが、語るにつれ認識できた。
最終講義は正直なところ、楽理をある程度学んだ人でないとかなりきつい内容だとは思う。しかし、理論の細部が理解できなかったとしても、濱瀬氏のもつエッセンスは十分に吸収できると思う。それほどまでに人間的情熱に溢れた素晴らしい人だというのが、文面からでもわかった。
歴史編、キーワード編と読んできたが、やはり読むならば2冊セットだと思う。必要な道具をインストールして、現場の人の生の声を聞き、その情熱を感じ取るのが、一番の方法ではなかろうか。

菊地成孔・大谷能生『東京大学のアルバート・アイラー―東大ジャズ講義録・歴史編』

東京大学で行われたジャズの歴史についての講義録。各年代にジャズ奏者達がどのように即興演奏を繰り広げ、理論を突き詰めていったのか、その栄枯盛衰をわかりやすく説明している。
ジャズといえども、それ単体で歴史を語るのは非常に難しく、当時の世相や流行などが大きく反映されるので、自然アメリカ自体の歴史も混ざってくる。そして自分達が知っているバンドのデビューだったりでジャズサイドから他の部分にコネクトされた時、「なるほど」と言ってしまうのだ。
読んでいて特に感心したのはマイルス・デイヴィスだ。『Kind of Blue』がモードジャズの嚆矢となったことは知っていたが、彼の人となりやそれ以降のことは知らなかった。商業主義的でありながら、徹底した開拓精神の持ち主……彼の作品はもっと聞くべきだと再認識させられた。
前期のテストの内容が、音楽を聞いて好みの順番に並べ、批評を書くというもの。これは非常にいいテストだと思う。音楽で批評を書くというのは難しい。音楽は小説などと違って、音を扱っている。音で感じたことを言語に、かつ客観性も踏まえて書くというのは、好き嫌いを越えてものごとを捉えるということであり、簡単な作業ではない。まさに授業でやったバックグラウンドによる裏付けが必須となってくる。その上で自分の感じたことを書く。こういったことができるようになるのは、非常に大事なことだと思う。
あとがきでも言われているが、これでわかった気になってはいけない。これはきっかけであり、確認作業のひとつに過ぎない。この本から張られた枝を伝って、また新たな本なり音楽なりに辿り着くだけのことだ。手始めに、次は大抵の人が同書のキーワード編を手に取ることとなると思う。もちろん自分もその一人だ。

真・女神転生デビルサマナー(PSP版)

久々に濃いメガテンをやった気がした。メガテン好きでまだやってない人は是非やるべきだと思う。引き継ぎはないけれども自分は二周目を始めた。以下小見出しを使って感想を書く。「デビサマ」は本作の呼称として使わせていただく。

世界観・シナリオ

いわゆる日常から非日常へとシフトしていくタイプのものだ。こういった点では真1に近い部分もあるかもしれない。パートナーと近頃頻発する危険な事件に立ち向かっていく。本来の女神転生と違うのがここだ。徹底して日常の街の中で事件を解決していくというのは、後のソウルハッカーズやライドウも一緒。ここがやはりデビルサマナーシリーズの原点と言えるかもしれない。
シナリオは依頼と本筋の並立であり、やや淡白。女神転生のような重苦しい描写はあまり見受けられない。でも上記のような世界観なら仕方がない部分もある。個人としての成長、他者との関わりがその分浮き彫りになっているので、より主人公との感覚共有がなされやすいという長所もあるように思う。

音楽

ハッカーズを先にやっていたので、デビサマのあまりのメガテン具合に嬉しくなった。戦闘音楽は特にメガテンそのものだ。矢来銀座などに軽快さがうかがえるが、ベースラインはやはりメガテンのようによく動く。
自分はゲーム音楽の場合、世界観に合っているかどうかのみを評価の対象にしているので、真・女神転生と銘打ってある今作でこの音楽は素晴らしいと思う。

システム

女神転生をかなり踏襲している今作ではあるが、悪いところも踏襲している。それがプレイ環境だ。細かいところで残念なところが目立つ。まず思ったのは合体シーン、ムービーのスキップがないこと。それから買い物でのまとめ買いが1ずつしか数字を増やせないこと。弾丸の購入が非常に苦痛。ライジングカートなどは買いすぎなほど持っていたいのに……。それから忠誠度の上がりにくさ。物欲型なら贈答すればすぐに上がるが、残りのタイプは戦闘で上げなければいけないので、合体との兼ね合いを考えるとどうしても最高値までは厳しい。あと地味にきくのがフィールド上での月齢変化が早過ぎる点。HARDでやっている身としては、新月で突入したい気持ちもあるので、もう少し遅くしてもよかった。
ハッカーズをやった方なら気付くかもしれないが、これらの不満点というのはハッカーズでは解消されている。ここにアトラスのしっかりとした意見反映を感じたのも確か。こういった部分でゲームの楽しさが左右される人はハッカーズを後回しにしたほうがいい。今までのメガテンに慣れている人は全く問題はない。

悪魔関連

悪魔の数は非常に多い。アナライズや全書埋めは苦労することと思う。また交渉が非常に難しい。ハッカーズの後ならなおさら感じる。満月交渉のありがたみがわかる。ただ悪魔全書があるので、一度仲魔にしてしまえばあとは楽。造魔はハッカーズよりもシステムが単純なようで、ちょっと使い勝手が悪い。しかし造魔がいないと英雄が作れないので放っておくわけにもいかない。ヨシツネの強さは異常。

難易度

戦闘はさほど難しくはない。メガテンお得意の序盤がきつくて、終盤が楽というパターンだ。魔法の威力が高いので、序盤は雑魚でも当たり前のように魔法で一撃死する可能性があるので注意。まあでもHARDを選択しても真3みたいな苦労はまずないので安心してほしい。HARDで一番辛いのはバックアッパーのセーブ制限だ。新月しかセーブできないのでより計画的にセーブを考えなければならない。まあレベルが上がっていればエストマを使ってから調節してもいいのだが。
今作で最も目に付く高難易度といえばダンジョンだろう。階層を行ったり来たりする構造が多く、それに加えて無音ワープ、回転床、落とし穴などが非常に多く、プレイヤー心理を巧みに読んでくるような罠が多いので、攻略に時間がかかることも。

真・女神転生デビルサマナー アトラスベストコレクション - PSP

真・女神転生デビルサマナー アトラスベストコレクション - PSP

武田泰淳『ひかりごけ』

武田泰淳を読むのはこれが初めてだ。きっかけは、実在の人肉食事件を題材にした表題作に惹かれてだ。
表題作を読んだ時、久々の感動に包まれた。このような作品を今まで知らないでいたのかと、自分を恥じてしまうほど。
主人公は羅臼の校長から戦時中、船が難破し道東で船員達が遭難し、その過程で衰弱死したものの肉を食べた事件の話をきく。
一人生き残った船長は、まぎれもなく全員を食べた人間だ。しかし人肉食ときいて、いい気持ちのする人はいない。自分だって、わけのわからぬ気持ち悪さが込み上げてくる。では船長は人肉食を行ったことで、人道に反する罪に問われるのか? となると、これはどうもそう簡単にはいかない。
そのことについては途中から戯曲という形で、船員達のやりとりを書いている。しきりに船長は、もう一人の船員に向かって、生き残るためには、死んだ者を食わなければならないと諭す。しかし人肉食というタブーがつきまとう船員は、次は自分だと思い焦燥感にかられる。
社会で規定されているタブーが、純粋に自分の存在を維持するために必要なことと重なった苦悩が、船長に重くのしかかっていると思う。第二幕で船長はカミュの『異邦人』のように、四面楚歌の裁判にかけられる。裁判の人間達は彼を残忍な罪人とみなしているようだが、自分はそういいきることはできない。ここに武田泰淳のうまさを見た気がした。
表題作の他に3つの短編がこの文庫にはおさめられている。どれにも共通しているのは、名よりも存在を重視していること。今ここにあるということの大事さを常に意識しているように感じられた。そしてあるコミュニティから弾きだされる異端者に、なみなみならぬ関心をよせている。

ひかりごけ (新潮文庫)

ひかりごけ (新潮文庫)